未成線・吉崎鉄道の遺構

昭和のはじめに鉄道敷設に野望をかけた、男たちの夢の跡を紹介します。


【概要】 三国-芦原-吉崎-大聖寺間を鉄道で結ぼうという構想は、明治29(1896)年に三国鉄道が認可申請 (『福井県史』通史編5) したのを手始めに幾度かの浮沈があったのち、昭和3(1928)年6月に地元有志が出資した吉崎鉄道に芦原-吉崎間の敷設免許が再交付されました。同年12月、吉崎集落から芦原に向かって約2.4kmの路盤整備から着工しました。しかし、当初の資金計画に甘さがあった上に、昭和初期の不況と経営陣の内紛などが重なり、昭和5年4月ごろ暗礁に乗り上げ、昭和8年までには会社も消滅してしまいました。詳しくはこちら
以来80年ほど経過していますが、掘りかけたトンネル1カ所と湿地帯に架かる橋台2カ所、これらに続く築堤が合計200mほど残っています。

A地点

吉崎停車場予定地
軽トラの進んでいる方向が線路予定地。
画面右手は吉崎御山。
B地点

築堤跡はまっすぐ進み、その後にできた県道はトンネルを避けて西 (右) 側へ迂回する。
C地点

上の写真の位置から築堤跡を歩けるのはほんの十数メートルだけで、雑草雑木に行く手をさえぎられる。
D地点

築堤跡には桜が植えられたが、雑草雑木が多く、花見をする気分にはなれない。
E地点

築堤跡を県道と反対側から見る。
F地点

葭と笹のやぶを押し分けていくとコンクリート製の橋台が現れる。
幅3メートル、径間4メートル。
D地点

下面のほぼ中央にトンネルが掘られている。
30メートルも西 (画面右) 側へずらせばトンネルなど掘らなくても良かったように見える。
G地点

県道からほんのわずかな距離なのだが、トンネルは雑草雑木に覆い隠され、目をこらしてようやく一部分が見えるだけ。
H地点

吉崎側は入口から5.9mまでコンクリートが巻かれている。
最大高さ約3.65m、最大幅約3.9m、底辺幅約3.7m、全長約24.5m。

鉄道トンネルとしては高さが異様に低く見える。
これで電車を通せたであろうか。
J地点

芦原側の坑口は掘りかけのまま放置されているが、自然の洞窟のようにも見える。
K地点

Dと反対側から見たトンネル全景。
K地点

湿地の中に橋台が残っている。
湿地というより沼の中にあって近づけずよく分からないが、この低さはこれで完成なのか工事途中だったのだろうか。
L地点

細呂木浦停車場予定地。
細呂木集落へはまだ1kmほどある。
M地点

橋脚の工事が行われたが、舟の通行に障害となることで、戦後になって取り壊されたという。
N地点

福良池停車場予定地。
付近に集落はない。

路盤工事が行われたのは吉崎からここまでだけで、ここより芦原まではルートさえも確定せず、用地買収のめども立っていなかったという。