柳ヶ瀬線(旧北陸本線 疋田−木之本 間)



柳ヶ瀬線の沿革

明治4年 京都−敦賀間の第1回目の測量を京都側と敦賀側で開始し、英国人ウィンボルトが敦賀側を担当しました。
その後、数回の測量の後明治13年になり、ようやく長浜側、敦賀側を着工しました。
明治14年2月には、疋田−金ヶ崎(敦賀)で不定期貨物列車が走りだしました。
これが日本で5番目の鉄道となりました。明治15年3月には長浜−柳ヶ瀬、洞道口(柳ヶ瀬トンネル敦賀側)−金ヶ崎が、未完成の柳ヶ瀬トンネルを挟んで、旅客輸送が開始されました。柳ヶ瀬トンネル開通まで乗客は柳ヶ瀬、洞道口間の山道を歩いて行き来しました。
明治17年、4年間の難工事の末、柳ヶ瀬トンネルが開通し長浜駅−金ヶ崎駅が開通しました。
時はすぎて、昭和32年深坂トンネルの開通に伴う新線の開通で柳ヶ瀬線と改名され、ローカル線となり気動車が運転されました。
昭和38年には新疋田駅−敦賀駅に上り線専用のループ線が完成し、柳ヶ瀬線は木之本駅−疋田駅となり、疋田−敦賀はバス代行となりました。
そして、昭和39年5月2日に柳ヶ瀬線全線が廃止になり、この区間は代行バス専用道になりました。
昭和41年に新深坂トンネルが開通し、敦賀駅−新疋田駅間が複線化されました。
現在、廃線跡は一般自動車も乗り入れ可能になっています。


廃線跡の見所


旧疋田駅近くの町並み

国道8号線と北陸本線との間にあり、古来より交通の要所でした。
古代の三関の一つ、愛発関(あらちのせき)がこの近辺にあった
という説が有力です。
疋田の町並みは、今でも宿場町の雰囲気を残し、旧疋田駅の跡地は
現在、児童会館が建っています。

疋田に残る、開通時からの橋脚

旧疋田駅跡にある児童館


刀根トンネル

国道8号線の疋田検問所を過ぎて、8号線を3キロほど行くと(左へ行くと木之本)の標識があります。
この標識どおりに左折して進んだ最初のトンネルが旧刀根トンネルです。
地図で見ると、疋田検問所の東側で、国道8号線と国道365号線とを結ぶ道路の敦賀側の最初の
トンネルです。
現在は自動車トンネル用に改修されており、鉄道トンネルの面影はありません。


小刀根トンネル

刀根トンネルを敦賀側より進入して、柳ヶ瀬側へ抜けた先に古びたトンネルが見えます。
これが、小刀根トンネルです。手前には鉄橋を改良した橋が架かっています。
この橋の橋脚は小刀根トンネルとともに、明治の香りを残しています。
現在、小刀根トンネルは敦賀市の記念物に指定されています。

小刀根トンネルと鉄橋跡


柳ヶ瀬トンネル

明治17年に4年間の難工事の末に開通したトンネルです。刀根トンネルとともに日本人の手によるものです。
滋賀県側の入り口に取り付けてあった、伊藤博文公による額は長浜鉄道資料館に保存されています。
現在、このトンネルは自動車用に使われていますが、ほとんど鉄道トンネル時代と変わりありません。
ここを過ぎると、国道365号線と合流します。

敦賀側の入り口の画像です。


中の郷駅跡(滋賀県)

柳ヶ瀬トンネルをすぎて、国道365号線を木之本へ向かうと道沿いに、中の郷と書かれた駅名板と鉄道のプラットホームが見えます。
これが旧中の郷駅跡です。


【参照】 わだちNo.88に詳細なレポートがあります。

参考資料 島津敞史氏著 ふくい鉄道史 、 鉄道友の会福井支部会報「わだち」50号